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講演抄録



アン・ホイストン・スパーン(ペンシルバニア大学教授)
 
みかげ石の庭園:都市の自然とヒューマン・デザイン


自然の力は、その存在が認められ、活用されれば、都市の有益な生活環境を作り上げる強力な源泉となるが、一方、無視され、破壊されれば、洪水、地滑り、地震、大気汚染や水質汚濁など、何世紀にもわたり都市を苦しめてきた様々な問題を増幅する。不幸にも、都市は内在する自然の力を顧みず、活用することはめったになかった。都市の自然について、今日では以前に比べはるかに多くの事が知られているが、、その知識が、建物や公園の形態、道路の計画、都市全体のパターンなど、都市を形成する上で役に立てられることはほとんどない。都市は、自然の一部として認識され、しかるべくデザインされなければならない。ちょうど、個々の公園や建物が、より大きな全体のなかに位置づけられる必要があるように、都市や郊外、田園は、自然の中で生成・発展するひとつのシステムとして考えられなければならない。都市の中の自然は、無視あるいは征服するのではなく、庭園のように世話をし、育んでいかなければならない。
 


チェン・シャオリ(中国建設部城市企画司副司長)
 
都市における自然との共存


人類は地球上の生物のひとつで、最も重要かつ賢明な生き物である。地球及び自然は、人類無しに存在し続けることができるが、人類は水、空気、動植物無しに生きることはできない。生態環境の保護とは、人類そのものの保護に他ならない。人間の生活の質は、自然の生態環境の質に依存している。
都市は、人類の主要な居住地であり、都市環境は主要な生活環境である。都市生活の質を確保するためには、健全な都市の生態環境を創造し、維持しなくてはならない。そのため、工業、住宅、商業、リクリエーションの各地区を適切に配置し、健全な都市パターンを形成しなくてはならない。良質な都市を作るうえで最も重要なことは、林地、風致地区、山、河川、オープンスペース、並木道、公園をはじめとする良質な緑地システムを、都市の内部とその周囲に作ることである。
都市の緑地システムや公園は、都市生態系のニーズだけでなく、人間の社会活動のニーズも満たす。都市部において公園が果たす役割は多く、その主要なものは以下の通りである。
1、都市の生態環境を維持し、向上する。公園や緑地システムは、小動物や鳥の保護区として考えることができ、都市内の水系を保護し、通風性を改善し、空気を浄化する。
2、自然と親しむための空間を提供する。人々は、ここで自然を享受し、自然に触れ、自然から学び、人間生活における自然の重要さを認識することができる。
3、コミニュケーションの場を提供する。体操、パーティ、展示会、文化活動、興行、外国語の練習、友人との語らいなどの社会活動を行うことができる。これらの活動は、人々のコミニュケーション環境を向上させ、人間の道徳意識や人間らしさを高めることができ、さらに緊張に満ちた現代都市生活に休息や安らぎをもたらす。
4、地震、火災など予期せぬ自然災害時の避難場所を提供する。公園や緑地は、避難場所となり得るだけでなく、緊急の給水場にもなる場合がある。
このように、都市の緑地システムと公園は、都市生活のなかで極めて重要かつ不可欠な役割を果たす。都市計画においては、これらを適切に構成することが重要である。中国では、都市の緑地システムや公園への関心が高まっている。1990年に実施された中華人民共和国城市企画法には、これらの事項に関する特別条項が設けられた。中国の都市プランナーはこれまでに、以下のような対応をしてきた。
1、地域単位で、山、景観、水源、天然資源、農業などのため保護地区や他の必要な地区を指定する。これにより、都市の生態環境の基本的条件を保証し、市民のレクリエーションや余暇のニーズを満たすことができる。
2、都市計画のなかで空間計画を行う際に、自然の地形にしたがって、工業地区と商業地区の間や都市の各所に、緑地を設けて緑地空間や公園のシステム化を図り、それらが都市の中心地に溶け込むようにする。
3、市内に、様々な規模の目的の異なる緑地空間や公園を設け、市民が日常生活のなかでそれらを利用できるようにする。
4、中国の特色を備えた緑地や公園の設置に、より配慮する。中国には、緑地、公園、庭園の長い歴史がある。それらの中国的特色は、都市居住者をひきつけるうえで、不可欠である。



西山 康雄(東京電機大学教授)
 
近代都市計画史にアーバン・ネイチャー概念を探る



日英の近代都市計画史のなかで、「アーバン・ネイチャー概念」が、どのように形成され、実現し、また未完に終わったのかを探り、今後のアーバン・ネイチャー像を考えてみたい。取り上げる事例は、@日本では、名古屋の「戦災復興都市計画=都心」「経済成長期の都市計画=郊外」、Aイギリスでは、19世紀末から20世紀初頭へかけての、「揺らん期の近代都市計画」とハワードの「田園都市論」である。
@名古屋都心の都市構造を決める百メートル道路は、はじめは公園道路と称された。いかなる計画思想といかなる検討を経て現在の姿となったのか。戦災復興計画のなかで、公園緑地はいかに位置づけられていたか。また、成長期に、土地区画整理事業により開発された名古屋郊外住宅地に、はたして「自然と共生する都市づくり」の発想はあったのか。
A19世紀末のイギリス、「汚いもののあるところに、金はある」と称していた。経済的に繁栄する大都市は、同時に、疫病、不衛生、劣悪な居住環境の場でもあった。しかし20世紀になり、財をなした中産階級は、好んで、自然豊かな田園郊外に住まいの場を求めるようになった。都市計画の誕生である。そして、Town and Country Planningと称されるように、都市と農村、つくられた環境と自然の両者を視野に入れていた。また同じ時期、より根本的に、都市像と生活像の変革を唱える、ハワード田園都市論があった。「理念の都市計画」である。法定都市計画、田園都市論のなかに、自然と共生する都市像を探って見たい。



ジル・アンティエ(IAURIF国際事業部長)(イル・ド・フランス地方圏議会都市計画開発研究所)
 
首都のグリーン・ネットワークにおける公園:パリの新しい三つの公園


「イル・ド・フランス」(大パリ地域)の地域・都市計画は、この15年間、公園や緑地の政策にますます多大な関心を払うようになった。最初の地域コンセプト(いわゆる「グリーン・ベルト」)を経て、1994年に承認された「グリーン・プラン」では、都市エリアの中心部における都市公園のグリーンネットワーク形成をコンセプトとして強く打ち出し、都市環境に対する総合的なアプローチを提起した。本講演では、パリにおける以下の最近の3つのケース・スタディを通じて、都市公園のコンセプトの革新的アプローチを検証する。シトロエン公園(市内の再開発過程の中心的存在)、ラ・ヴィレット公園(公園内での科学展示会や音楽演奏会)、ベルシー公園(新しい都市ランドマークとしての公園)。(a)総合的なプランニング・コンセプトの傾向: ・1980年代のグリーン・ベルト・プロジェクトの最初のアプローチ・新たな地域アプローチ:1994年の「グリーン・プラン」/都市エリアのためのグリーン・ネットワーク/グリーン・ベルト/郊外田園緑地帯/河川流域とグリーン・リエゾン(緑の連環)(b)具体的なアプローチ:都市エリアのためのグリーン・ネットワーク・プロジェクト:・選ばれた都市再開発の機会を通じての緑地公園の供給増加・放射状に緑の回廊をつくるセーヌ河、マルヌ河の川堤に関する緑化プロセス(TGV鉄道上のものと同様)・都市の全体的な景観と植物種の保存、強化(c)パリ市内の3つのケース・スタディに示されたような都市エリア内の公園に関する全く新しいアプローチを提唱するグリーン・ネットワーク:/「シトロエン公園」(14ヘクタール)1992年完成、行政は、周辺エリアの総合再開発計画を推進(アパート2800戸、700床の病院、企業開発用地11.5万g);/「ラ・ヴィレット公園」(20ヘクタール)、庭園と科学/文化施設との極めて珍しい結合;/ベルシー公園(13ヘクタール)目下造成中で、パリの南東部にあるこの公園周辺広域の再開発過程にとり、都市ランドマークとしての中心的な役目を果たす予定。(新しい国立図書館に向かう橋を含む)
結論 このようなグリーン・ネットワークの経験は、単に都市計画や都市公園政策にとって興味深いばかりではない。大パリ地域の新たな開発のための一種の都市生態系的アプローチを表わすという、より広範な意味をもつ。すなわち緑の回廊やリエゾン(緑の連環)は、都会と田園という対立を過去のものとし、新しい都市公園は都市開発に機能的に統合された役割を果たす。より多くの植物が都市計画の手段に用いられれば用いられるほど、このように新しい都市コミュニケーションの魅力的な中核としての公園の役割がますます強調されるであろう。



チュウ・ティアム・シュー(シンガポール国土開発省公園レクリエーション局次長)
 
シンガポールの緑化政策



シンガポールのガーデン・シティ・プログラムの発端を探り、シンガポールの物理的環境を変える上でそれが果たした重要な役割について考える。パーク・マスタープラン、グリーン・アンド・ブルー・プラン、および全国規模のパーク・コネクター・ネットワークについて簡単に説明する。これらのプランは、市民の社会的ニーズやレクリエーションのニーズを満たすための公園やオープン・スペースの総合的なシステムを提供することを目的としている。また、殺伐とした都市の構造を和らげるためのいくつかの特別な緑化事業についても検討する。最後に、将来のシンガポールの緑化を推進する上での課題について概説する。



ケン・テイラー(キャンベラ大学教授)
 
キャンベラのナショナル・トライアングル:空間・場所・イデオロギー


都市公園から山のハイキング道にいたるまで、あらゆる風景は我々の心に執拗かつ逃れられない妄想として焼き付けられている
  サイモン・シャマ著(1995年刊):風景と記憶
キャンベラは他に類例をみない都市である。最初からランドスケープのなかの都市として考えられたが、これは現代的ランドスケープに対するコミュニティの姿勢に関わる一要因である。ここではランドスケープが都市の形状を内外ともに形成している。都市自体は歴史とのつながりを盛り込んだランドスケープの中から生まれた20世紀の産物である。国際設計コンペが盛んになった風潮を受けて今世紀初めに考えらえたこの都市は、台頭しつつあったオーストラリア・ナショナリズムと19世紀における理想的都市のビジョンを象徴的に反映している。建設以来日の浅いキャンベラの歴史を見る時、ヨーロッパから初期の移住者がイデオロギー的背景と共に持ち込んだランドスケープの歴史と何千年にもわたるアボリジニー(原住民)のそれを重ね合せる必要がある。そのいずれもがキャンベラの環境におもかげを残している。現在のキャンベラのコミュニティの価値およびそのオープン・スペースー公園ーはこれらの歴史とランドスケープに対するイデオロギーの融合体である。したがってキャンベラは豊かな文化的意義の貯蔵所であると共に、ランドスケープに対する理想主義のイメージの優れた融合体であるといえよう。オーストラリアの首都であり、かつそこに住む30万人の人々のふるさとなのである。キャンベラの中心部にはウォルター・バーレイ・グリフィンの1911年の感銘的な受賞作品「ランド・アクシス」(陸の軸)の両側に広がる広大オープン・スペースがあり、ナショナル・トライアングルの名で知られている。これは現在バーレイ・グリフィン湖となっている「ウォーター・アクシス」(水の軸)によって二分されている。ナショナル・トライアングルはグリフィン構想の象徴的中心をなすものと考えられるが、当初グリフィンが思い描いた壮大な中心軸ーランド・アクシスーを持つライン、すなわち、政府や公共のビルが立ち並び、途中、湖のほとりのクラシックな水門の建物でアクセントをつけ、トライアングル(三角形)を国民の建物である連邦議会議事堂(キャピトル)で締めくくるというラインに沿った展開とはならなかった。湖の一端は開いており、トライアングルを見下ろすキャピトル・ヒルにはキャピトルの代わりにパーラメントがある。この区域には国家機関のビルが多数あるが、幾何学的デザインにそって樹木を配置したランドスケープスペースをたっぷりとってある。このオープン・スペースの向かい側、議会の反対側の眺望を限っているのがキャンベラを取り囲むユーカリに覆われた丘のひとつ、エインズリー山である。辺境の森林地を思わせるその独特のイメージは、まさにオーストラリアそのものである。これら二つのことなるランドスケープの要素がフィジカルにもシンボリックにもダイナミックな緊張を生み出している。この素晴しい劇的なランドスケープが、未来のデザインにあたって対立するアイディアーイデオロギーーの舞台となる。都市デザイナーたちが率いるある圧力団体は、このスペースはグリフィン計画にみられるような建築的な空間だけがもたらし得る象徴性にかけている、と主張する。また、このスペースは開放的なランドスケープとして象徴的な場所という意義を確立したという見方もある。コミュニティの住人の多くや環境保護運動グループはこの見解を支持している。そこで次のような疑問が投げかけられる。誰のためにデザインしているのか?誰の価値観が重要なのか?ここでは、これらの疑問の解明を試みる。



マーク・ストーン(オーストラリア・ビクトリア州国立公園課長)
 
自然と都市をつなぐ ビクトリア州の三つの優れた公園システム


幸運にもビクトリア州には以下の三つの優れた公園システムがある。それは州都メルボルンの中央にある環状の公園と庭園系統とその外側に位置し主要水路に沿ってメルボルン市と連結している環状の首都圏の公園系統、そして州全体の国立公園、州立公園および自然保護区からなる総合的な公園システムである。公園開発は、最初からメルボルン市の都市計画にとって不可欠な部分であった。ひとつには、これが中核をなす数名の人々のビジョンであったことにもよるが、1850年代のゴールドラッシュと共にやってきた移民たちの技能やエネルギー、才能に大いに助けられ、更にはメルボルンが都市開発の形成段階にあって財政的に潤沢であったことも幸いした。市の公園や庭園が造られたのもこの時期である。20年も経たないうちにメルボルンの本質的特徴が明確になった。それはヨーロッパの景観・造園の理想に基づいた『庭園都市』である。今日でも市の中心部では5ヘクタールごとに1ヘクタールの公園緑地が設けられている。
19世紀末には新しい世代がビクトリア州の持つ自然の多様性と景観の素晴しさを高く評価しはじめた。世界で最も早く設立された国立公園の幾つかはビクトリア州にあるが、その設立にあたっては博物学者の力に負うところが大であった。現在、国立公園局(NPS)の管轄下には100以上の公園があるが、これには州立公園の15%が入っており、自然環境の代表的なものを保護している。メルボルン市の人口増加と郊外への拡張にともない、さらに別の公園システムの必要性が叫ばれるにいたった。過去20年にわたり、メルボルン公園水路局(MPW)は多数の公園を新設したが、これらは首都圏の周囲の外環レクリエーション用オープン・スペースを形成し、巨大な車輪のスポークのように水路にそってつながっている。これによって中心部と郊外のはずれ、更にその背後をつなぐオープン・スペースのネットワークが形成された。これら三つの公園システムによってビクトリア州は開発、リクリエーションに対する社会のニーズ、自然および文化的遺産の保護という3つの課題の均衝を保ったのである。さまざまな利点が挙げられる。自然を基盤とした観光はすでにビクトリア州の最も重要な産業の一つであり、フィリップ島のペンギン・パレードやヒールスビル・サンクチュアリーは国際的にも有名である。近年ではオーストラリア原産の鳥が多数市内に戻ってきており、これは市内の環境が健全であることの反映といえよう。市の中心からほんの数キロのヤラ川にはカモノハシが棲んでいる。メルボルン国際空港に隣接するゲリブランド・ヒル公園の疎林では、人工的な繁殖計画によりEastern Barred Bandicoots(オーストラリア有袋類の一種) の姿が再び見られるようになった。今後数年にわたり、ビクトリア州は開拓者たちのビジョンとエネルギー、そして優れた自然遺産を祝うことになる。来年は王立植物園設立150周年にあたり、1998年には二つの最も有名な国立公園-マウント・バッファローとウィルソンズ・プロモントリー-が100周年を迎える。将来的には偉大な自然の遺産を更に保護すべく、ビクトリア州の公園管理を国際自然保護連合(IUCN)の保護地区基準に連結させたいと願っている。



越沢 明(長岡造形大学助教授)
 
社会資本としての都市の緑と都市文化


人間は古代に定住生活を開始して以来、住居と共に庭をつくってきた。しかし、都市化と産業革命によって19世紀に過密な近代都市が成立した後は、個人私有庭園に代わって公園という共同の庭園を整備し、都市の中に自然を持ち込むことが都市政策の大きな課題となった。
19世紀後半から20世紀前半にかけて成立し、発展した近代都市計画は、社会資本としての公園、オープンスペースを都市改造、都市拡張の中で計画的に確保、整備することに大変な努力を注ぎ込んできた。このことはオスマンのパリ都市改造、イギリスの田園都市運動、グリーンベルト政策、アメリカのセントラルパーク、公園・ブールバールシステム、オーストラリアのキャンベラ・プランなど近代都市計画の主要な思想とその成果を見れば明らかである。近代都市の市街地とその郊外に公共庭園、並木道、河岸/緑地、都市林、保存緑地などの公園、オープンスペースが十分に確保された状態で、初めて華やかな都市文化とゆとりのあるカントリー・ライフが可能となり、開花している。そして、すぐれた都市計画を有する都市ほど、緑の遺産を大切にし、政策の一貫性によって産業リストラなどに対応して緑をつくり続けている。
日本では、例えば名古屋は1920年代の郊外地開発の際、当時は遠郊の山林地帯に東山公園という大公園を先行的に整備し、風致地区の指定によって緑豊かな住宅地・八事(今日、八事はお洒落なブティック、カフェ、ミュージアム等が進出している)をつくり出し、1940年代は、グリーンベルト構想により、庄内緑地、大高緑地など大緑地を確保し、1945年の敗戦後、戦災復興計画では防災と美観を目的として幅100cの2本の公園道路(久屋大通、若宮大通)や大きな公園墓地をつくってきた。このような努力の再評価と政策の一貫性が実現し、同時に本来、日本人に存在したはずの緑を愛する洗練された市民意識が回復することによって都市が美しく、日本人のライフスタイルが魅力的なものになることを期待している。



白幡 洋三郎(国際日本文化研究センター助教授)
 
庭園は世界中どの地域にも存在する。しかも歴史上、どこにおいても囲われた空間の独占によって姿をあらわした。中国の林苑、日本の山斎(シマ)、西洋のホルトゥス、いずれもみな、排他的に囲い込まれた空間である。視線による空間の「切り取り」(心の庭)にはじまり、目に見える境界をつくる「囲い込み」(形の庭)にいたる庭園の歴史は、すべて排除の論理に貫かれている。一方、〈公園〉は19世紀に生まれるまでどこにも存在しなかった。西洋に誕生した近代を担う層としての人々(ブルジョア層が最も近い表現か)が、自らの理想を規範としてつくりあげたのが〈公園〉である。西洋起源の排除の論理を持った史上初めての公園、それをここでは〈公園〉と表現している。だが、もともと排除の論理を持たず、囲い込まれない屋外空間である公園は、庭園と同じくどこでも存在した。地域・時代によって異なる利用のあり方と、異なる造形を備えた地域の「文化」であった。世界に広まった〈公園〉は、西洋起源の近代「文明」とみてよい。共有地や人会地のようなあいまいな性格を帯びた前近代の「文化としての公園」が、行政府という層としての意志によって整理され、できあがってきた近代の制度と装置である。近代〈公園〉という歴史的規範を越え、自由な公園イメージを描くには、制度への想像力、装置への想像力を働かせるほかない。



田中 優子(法政大学教授)
 
「庭はあらゆる場である」 舞庭、狩庭、網庭、塩庭、稲庭、乞庭、旦那庭、斎庭、魚庭、家庭等々、庭は生きる上で必要なことをするあらゆる作業場であり、楽しむ上で必要なことをするあらゆる芸能場であり、そして遊行民の縄張りのことだった。土のにおいのする家の中、家の外の土間であり、無限に道の向こうに拡がる漂白の空間のことだった。私たちにいかなる「場」が今必要なのかを考えることが、庭と園を考えることだろう。
「庭は宇宙の表現だった」
阿弥陀の浄土、市中の山居、須弥山、蓬莱山、インドのマンダラ庭園、イスラムのオアシス庭園、果実の実るエジプト庭園、ヨーロッパの悦楽の園、そして舞場と斎場が合体変化した劇場、遊廓等々、庭はこの世に存在しない夢の世界の実現化であり、生命の根源であり、宇宙の観念そのものだった。今、私たちは何を宇宙と考え、すべての安らぐオアシスと考えるのか。
「どんな空間も庭になる」
東海道は華厳の道だった。八景は世界の中心(中国)からやってきた名所のモデルだった。富士山は蓬莱山であり須弥山であり、その他の高山はいずれも、神々の降り立つ修行場だった。場所と道は、思想で切り取り、配置し、言葉(たとえば地名)を与えれば、その背後に広大な意味連関をもつ、充実した庭となった。

 

オーギュスタン・ベルク(フランス国立社会科学高等研究院教授)
 
庭園は大宇宙全体(自然)と特定の小宇宙(庭園)の間の象徴的対応を表わしている。しかしながら、対応の方法は文化によって大きく異なる。たとえば、フランスと日本の古典的な庭園はいずれも自然を対象としているが、一目見ただけでは両者間に共通点はほとんどない。前者が幾何学的であるとすれば、それは日本で考えられているように幾何学が人間による自然の征服を表現しているからではない。17世紀の近代科学の誕生によって、外界の形状や付随する現象を超えた自然の深遠なる理法が数学的秩序と対応することが明らかになったことによるといえよう。そうした精神(こころ)の枠組みの中で、幾何学的形状は不自然とは感じられなかった。これは、存在とは存在者と現象の中にあるのではなく、理想的な形即ちイデアにありとするギリシャ思想と一致する。ハイデッガーの唱えるこの存在と存在者の分離こそ近代科学誕生の発端である。東アジア、特に日本では、そうした分離ないし概念は発生しなかった。現象の中に真の現実のみを見たのである。それ故に日本の庭園における自然の表現は真の形の様式化であり、庭園の実際の形は、ひとつのタイプすなわち母型(型)に似せて作られたのである。いずれの場合にも、自然(あるいはそれ自体の中なる自然)は決して庭園によって表現されたようなものではなく、人間の善悪の観念の反映としての自然であり、人間の創造性をもって表現した自然なのである。



柏木 博(東京造形大学教授)
 
近代都市と緑


近代に構成されることになる都市計画と建築やデザインは、十九世紀が生んだ社会問題、言い換えれば資本主義が生みだした矛盾の発見からはじまっていた。そのもっとも、具体的な現象は貧困とスラムだったといえよう。つまり、近代の都市計画は十九世紀における絶望的貧困の発見に始まった。たとえば、貧困の発見はエンゲルスの「住宅問題」に指摘されているとおりである。二十世紀には、スラムをなくし誰もが健康で豊かな都市環境に生活するための、二つの対照的な計画が出現する。そのひとつは、エベネザー・ハワードによる田園都市である。彼は人口密度を低くした都市を構想した。また、都市が組織的なものであり、また構造的につくられコントロールされるべきものであると考えた。地方、ル・コルビュジエは爆発する人口に対応するために高密度都市を構想した。しかし、いずれにしても太陽と水とそして緑が都市に必要であることを認識していた。都市の緑(公園・庭園など)は近代デザインの中でどのように考えられてきたのかを再検討してみたい。



進士 五十八(東京農業大学教授)
 
都市への従属から脱却し、主体的空間として公園文化の創出へ


これからの公園の基本的性格は、現代文明、現代社会システム、現代都市計画システムの枠外のもの、いわば現代と対立する、また現代からの解放区であって欲しい。都市とか都市社会というメインカルチュア、メインシステムに対するサブカルチュア、サブシステムを、主体的に形成する中核的体系であり、空間であり、ムーブメントとして、未来の公園緑地を展開してもらいたい。
典型例は総合公園であるが、現代の文明や都市社会を補完すべく緑、スポーツ、遊戯、噴水、彫刻の美、集会交流、休養、交通、メカニカル、野性的自然、健康などほとんど無秩序な地域社会のニーズを受容れさせられてきた。総合というより混合、混在公園を余儀なくされてきた。
現代社会は、芸術は美術館、身体運動はスポーツクラブ、物販はスーパー、遊びはレジャーランド、そして水と緑は公園という風に機能を分化し分離し、都市の効率を上げてきた。部分的にビオトープを園内に造成して、エコシティに貢献するという矮少化した展開では限界がある。幕内弁当は瞬時の効用に滞り、基本的な食システムの中核にはなり得ない。現在進行中の環境共生都市も結局は、建設経済や景気浮揚策の一部として位置づけられてこそはじめて有意となる。
経済性を超越した、社会の些細な直接的要求にこだわらずに理想を掲げて、もう一つの生き方が描けるそんな世界を公園として造りたいものだ。公園は自然と文化の経済特区でありたいものである。



野田 正彰(京都造形芸術大学教授)

かつて大地は楽土だった。ところが、人々は自然と共生する採集狩猟生活から、定畑の高度農耕社会に移行するにしたがって楽土を失っていった。激しい階級差の社会からその反作用として世界宗教が生まれたように、庭園も失楽園のなかから生まれた。共生する楽土としての自然を失ったとき、富める者は自分たちの経済的基盤であり、支配し収奪する「此の世」に背を向け、枠づけられた空間のなかに人工的な楽土を構成しようとしたのである。
人間は自然と共生することを止めて、文明を発達させてきた。文明は、人工によって自然を支配し、さらに人工物によって世界を埋め尽くそうとする病的な衝動に突き動かされている。壊しては造り、造っては壊しながら、乱雑な都市の一角に、人々は閉ざされた楽土を造ろうとして来た。だが、破壊の上に夢想された楽土は、そこに佇む者に快楽の持続は死であることを伝えている。限りなく楽土に近づこうとする美しい庭園も、また虚栄の絶頂にある巨大都市も、あるいはディズニーランドのような都市の夢の城も、死によって完成する快楽を秘めている。とりわけ二十世紀の戦争と強制収容所(死の工場)を見た後、楽土の美に死の翳は濃い。
もう一度、私たちは生と死を対立するものとしてではなく、循環するものとして捉えられるか。未来の庭園や公園が生と死のやさしい循環を夢想できるだろうか。



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