かって日本各地でそうであった様に尾張・三河でも家ごとに味噌造りをしていました。他地域では殆ど米麹の米味噌なのに対し、当地では豆麹の豆味噌なのです。何故豆味噌なのかは定かでありませんが、徳川家康が栄養価高く日持ち良いのに着目し、戦には焼味噌にさせ常に携帯させました。
また領民にもこの味噌造りを奨励したと言う逸話があります。三河赤味噌・三州味噌と呼ばれ味噌玉を造って一年から三年間も仕込まれて出来る味噌です。これを家業として数百年の伝統を今に伝えるのが岡崎市八帖町の二軒の味噌屋「カクキュー」と「まるや」であり、これが本来の八丁味噌であります。
愛知には味噌屋が60社ほどもあって、豆味噌・米味噌・二つの合わせの赤だし味噌はどのスーパーなどにも揃えられるものです。「かけてみそ・つけてみそ」とそのまんま卓上感覚のチューブ味噌もあるんですよ。「マルサン」「イチビキ」などが全国ブランドのようで、その品質表示の最初に「豆味噌」の表記があればこの味噌を主としたものとなるのです。お確かめの上是非お試し下さい。和えものにも、煮込みにも、何にでも合う包容力ある味噌なんです。中華料理にも良く炒めものに最適で「甜麺醤(テンメンジャン)」代わりをします。
味噌を使った郷土料理は鍋物が多いですね。当地にも「煮味噌」という素朴なものがあります。大根・人参・里芋・ねぎ・厚揚げ・こんにゃくなど手に入れ易いものの味噌鍋で、寒くなると毎日の様に作っていたようです。
たまのご馳走には「かしわ(鶏肉)」を奮発したと言います。煮込んでも風味が落ちない豆味噌の利点を生かした郷土料理なんですよ。
当地は小麦栽培も盛んでそれを製粉する粉屋も多く、粉屋は水車で製粉しがてらうどんも作っていたそうです。
農作業で忙しい農家は自作小麦を持ち込んでうどんと交換して貰っていたようです。そんなうどんは当然煮味噌にも入れられたことでしょう。うどんが盛んだったことはきしめん麺の「芋川うどん(刈谷市今川町)」が東海道中名物だったことや、三河安城「和泉手延べ麺」が古くから作られていたなどにも窺い知ることが出来ます。
名古屋城下ではきしめんと並んで「煮込饂飩」が好まれていたようです。このことは名古屋の歴史を編纂した「名古屋市史」の「食物−名物−きしめん」の項の「當地には煮込饂飩ありて」に記述があります。
さらにこの料理を出して評判の店の紹介として「食物−料理屋−明治四年の料理店」の項に 『七本松 煮込み饂飩 寸楽亭』 が 料亭「河文」・櫃まぶし「蓬莱軒」 などと並んで記録されております。現在の千代田3丁目「寸楽園」の前身でしょうか。はて今はなきその煮込饂飩はどんなんだったか食べて見たいものです。
名古屋は江戸時代から続く商家が多いことが、当時の記録から判ります。
文政年間(1820年頃)の学・芸・商の有名どころを番付風にした「金府繁栄風流選」には、呉服−伊藤(松坂屋)・銅鉄−笹惣(岡谷鋼機)・材木−材聡・料理−河文などなど、今も残る老舗が並んでいます。多くはもと信長の家臣であったり、名古屋城築城に合せ尾張徳川の命でかっての信長の居城地清洲から名古屋に越した人達(清洲越し1610年)だそうです。
現在の味噌煮込みうどんは大正期に出来た専門店のものが定着したものです。味噌好きうどん好きの当地の人にうってつけでしたから、たちまち大流行しました。
基本は二つあり、一つは特有の「八丁味噌の煮込み汁」で、もう一つは「塩なし生麺」です。汁が染み込み・歯応え良くを工夫したうどんで、煮込んで旨味が出るようになっているところが、茹でてつゆにからませる普通のうどんと大きく違うところなのです。
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